ニュース・ご案内のページ

2025年9月1日

コロナ越え笑顔戻る 6年ぶり 分会合同で納涼イベント


マジックショーを子どもも大人も一緒に楽しむ支部会館の参加者
ビンゴゲーム最後の景品をじゃんけん、高島平区民館の参加者

 月24日、6年ぶりに分会合同で納涼イベントが行われました。子どもも多く参加して、マジックショーやビンゴゲームなどで楽しみました。

マジックショーに夢中
大山、仲宿、大谷口、
大谷口北、氷川分会

 大山、仲宿、大谷口、大谷口北、氷川分会は、板橋支部会館で開催し、87名が参加しました。
 最初に、マジックショーを子どもも大人も一緒に楽しんだ後、全員でビンゴ大会を行いました。ヨーヨーすくい、かき氷、ポップコーンのコーナーも用意。最後にスイカ割りで終了しました。

ゲームをたくさん用意
舟渡高島、徳丸、新赤
塚、上赤成増分会

 舟渡高島、徳丸、新赤塚、上赤成増分会は、高島平区民館で開催し、117名が参加しました。
 パターゴルフ、バスケットシュート、ボウリングなど、子ども向けのミニゲームをたくさん用意して、積極的に声をかけました。
 最後にビンゴゲームを全員で行い、大人も一緒に楽しみました。

中央、志村坂上、前野
中台、坂下、蓮根分会は

 9月21日(日)17時〜板橋支部会館(あーちぷらざ)にて家族で参加できますくわしくは各分会へ

2025年9月1日

組合の立て看板 新しく入れ替える
秋の拡大月間 9〜10月で


秋の拡大月間を前に、新しい立て看板と入れ替える舟渡高島分会

 8月24日午前に、各分会で「タテカン・ポスター張り出し行動」を行いました。
 9〜10月に、組合員を増やす「秋の拡大月間」を取組むのを前に、夏の紫外線で色あせた、立て看板やポスターを新しいものに入れ替えました。
 舟渡高島分会では、「できることアンケート」で協力の申し出があった組合員を回り、手際よく、張り出していました。

2025年9月1日

集団和解が成立 全員救済へ大きな一歩
建設アスベスト訴訟 東京1陣・2陣で


建設アスベスト訴訟で和解を知らせる弁護団

 8月7日、東京高裁にて、建設アスベスト訴訟で初めて集団和解を勝ち取りました。全国で千名以上の被害者が裁判に立ちあがり、組合も毎月の駅頭宣伝や支援行動など全面的に支援して、「あやまれ、つぐなえ、なくせ、アスベスト被害」をスローガンに、取組んできました。
 今回の集団和解は、最高裁の判決に続き、大きな転換点となります。長年のたたかいに確信を持ち、引続き、全面解決をめざします。

支部会館で アスベスト被害
 患者・家族・遺族10・5交流会

 10月5日(日)10時半〜板橋支部会館にて、板橋支部の患者・家族・遺族の交流会を開き、はげましあいます。

2025年9月1日

苦しむ仲間の要求を
8・31 活動者会議 多くの参加で取組もう
組織強化で運動の前進めざす


活動者会議の開会あいさつをする成瀬執行委員長

 8月31日、板橋区立文化会館にて、秋の活動者会議を行い、109名が参加しました。
 今回は、物価高騰で苦しむ仲間の仕事と生活の要求を、どう運動にしていくかが中心テーマとなりました。
 はじめに、本部の石川副委員長から「対話のできる群会議を目指して」との講演で学習した後、小林書記長が基調報告を行いました。
 穴澤賃金対策部長からは、「今が賃金・単価を上げるチャンス。請求・要求アンケートを使って対話を進めて、賃金の行き渡りを勝ち取ろう」と説明がありました。
 分会経験として、大山分会から「対話のできる群会議の雰囲気づくり」、氷川分会から「未加入者を追い続けた組織拡大」、志村坂上分会から「新しい協力者を発掘した住宅デー」について、それぞれ報告がありました。
 午後は、少人数ずつの分散会に分かれて、経験交流を行い、活発な討論が交わされました。
 再び全体会に集まり、原水爆禁止世界大会の参加報告の後、討論のまとめを晝間書記次長が行い、「分散会では、役員の後継者や群会議の参加案内の工夫などが話し合われた。秋の大運動は、一部の組合員だけでなく、多くの仲間の参加で取組もう」と結びました。
 感想文では、「講演は実体験なのでリアルに聞くことができた」「組合のメリットは共済のみならず仕事のつながりや仲間だと再認識した」「若い人が役員になると考えが広がり、良い発想で良い結果が出ることが分かった」などが出されました

多くの仲間が集う 分会センターに

 「みんなが気軽に集まれる」をめざし、分会センターを商店街に移し、さらにバーカウンターを作りました。交流会や、女性の会の定例会など、集まる場を徐々に広げてきました。先週のサンバカーニバルでは、初めて顔を合わせた若手たちが盛り上がっていました。
 住宅デーも、拡大行動や群会議などで声をかけて、お手伝いに来てくれた組合員・家族に助けられました。

うねり・潮流が社会を変える その源は群会議

 いま、物価高で実質賃金は下がっています。大企業には補助金をバンバン出すのに、中小事業者をちゃんと支援しない。株の投資で大儲けする大金持ちは税金で優遇するのに、我々の税負担は大きいまま。国民の生活を守らない政治は、本当にひどい。
 この状況を変えるのに、もちろん選挙も大事な一つだが、どうやってまともな政治を作る「うねり」を生むか、現場を変える「潮流」を作るかが、とても重要だと思います。家族や友人と語る、現場で一緒になった職人さんと語る、さらに同じような人を増やしていく。それが「うねり」や「潮流」につながると思います。
 群会議はまさにそういう場です。本当に困っている人は、自分から言い出さない。群会議に来なくなる人はSOSのサイン。仲間に声を掛けて、仲間を救い、下を向いている仲間を、一人でも良いから上を向いてもらうようにする。その積み重ねが大事だと思います。

群会議や訪問行動で 仲間と対話を広げよう


拡大月間の目標達成を誓う、成瀬執行委員長と小林書記長、穴澤書記次長

 活動者会議を一区切りつけた後、同じ会場で拡大出陣式を行いました。
 小林書記長は、秋の拡大方針について、「成功のカギは、全組合員との対話行動」だとして、「群会議や訪問行動で、多くの仲間と対話を広げよう」と訴えました。そして、「組合への加入理由で一番多い、土建国保の魅力を伝えて、その他、労災保険や健康診断などの業務も知らせよう」と話し、具体的な行動提起を行いました。
 成瀬執行委員長が、ダルマの目入れを行い、秋の拡大月間の目標達成を誓いました。
 各分会、青年部、イキイキ会、女性の会、PALの会が、それぞれ決意表明を行い、下山副委員長の団結ガンバローで閉会しました。

2025年9月1日

板橋での戦争犠牲者に冥福を祈る
8・15不戦の集い大山公園で


【前野中台分会・金井設男・記】8月15日、終戦前後に2千人以上が仮埋葬された大山公園にて、不戦の集いで、戦争犠牲者の冥福を祈る

遺体を次々と放り投げ
2700人を仮埋葬 多くは子ども

 不戦のつどいが開かれました。全体で150名、東京土建からは27名が参加しました。
 開始前に、追悼歌「私は忘れない」を合唱して冥福を祈りました。つどいでは、都議会・区議会議員から、哀悼の意を表した、あいさつがありました。それから、一人一人が献花を行い、私も、2度と戦争はするなと思いを込めながら、冥福を祈りました。

病院への空襲や餓死・疫病で

 1945年4月13日夜から14日未明にかけての城北大空襲で、豊島区から板橋区・北区などの広い範囲が、米軍機による無差別爆撃を受けました。大山にあった養育院(現・東京都健康長寿医療センター)も、病院施設や入院患者への攻撃を受けて、施設の9割を焼失し、約100人が亡くなりました。
 養育院は、傷病者や戦争孤児の受入れ施設となっていましたが、食糧難で食事が与えられずに、餓死や疫病で2700人以上が亡くなり、その多くは子どもでした。
 疫病が流行したため埋葬を急ぐ必要がありましたが、遺体数が多く、燃料不足もあって、火葬できないため、養育院の敷地内だった現在の大山公園に土葬されました。
 死者を悼むことはなく、大きな穴を掘って、運んだ遺体を次々と放り投げた、と語り継がれています。

2025年9月1日

原水爆禁止世界大会 参加報告(要旨)


同じ板橋からの代表団として参加した原水爆禁止世界大会

 広島・長崎の被爆80周年となった今年、原水爆禁止2025年世界大会が開かれ、8月7〜9日の長崎大会に、板橋支部から代表4名を派遣しました。代表派遣にあたり募金を寄せていただき、ありがとうございました。

故郷・北九州が曇りで長崎に
戦争はどれだけ悲惨か伝えよう

 長崎の人達に対し負い目や引け目みたいなモヤモヤが心の底にいつもあります。なぜなら北九州市小倉で生まれ育ったからです。
 父が八幡、母が小倉生れで、あの日、北九州上空が曇っていなかったら原爆は、北九州市(八幡製鉄)に落ちていました。父や母は戦後生まれなので生まれてないでしょう。当然、私も生まれていません。
 そういう教育を小さい時から受けてきました。夏休みには登校日があり6日か9日に合わせて平和(原爆)や人権について学習します。あまりの悲惨さに泣き出す子がたくさんいました。私は自分の受けた教育を子どもに話し伝えています。
 皆さんはどうですか。「子供が怖がるから」「子供が嫌がるから」と言ってこんな悲惨な事が無かったかのようにしていませんか。怖がったり嫌がるのは当たり前です。それが人の心ですから。
 平和や人権について親や周りの大人たちがきちんと教えなければいけない時に来てる気がします。ゲームやSNSなどで簡単に気軽に「死ね」と言う。今の人達は本当に核兵器のない平和な世界を望んでいるのか分からなくなる。戦争は人だけでなく人権や心までも殺します。ヒトラーがユダヤ人を、イスラエルがガザを、国賊と言って日本人が日本人を。昔も今も戦争は政府や政治家が判断します。「核を持つべきだ」「核抑止力が必要だ」と訴える政党が人気になっているからだ。
 硬っ苦しい理論、理屈を聞くより、いちど戦争が始まるとどれだけ悲惨な事になるのかを知るだけではなく、理解し、話しをしてほしい。なので世界平和大会は後継者世代や青年部の人達に参加をしてもらいたい。
 戦争をしない政治家や政党を選びましょう。選挙に行きましょう。核兵器のない平和な世界を訴え続けていきましょう。そこに命を授かった意味があるかもしれません。

早く廃絶を 気持ち深め
各国のスピーチ核の怖さ知る

 板橋代表団、総勢17人は7月27日の結団式を経て、8月7日に長崎へ向かいました。午後3時から長崎市民会館での全体集会に参加し、終了後、バスで宿泊ホテルに向かいました。山の上のホテルで長崎は坂の街は聞いてましたがここを上がるの、と思うほど狭い急な坂を貸切バスが上がっていくのは驚きました。東京原水協の交流会に参加し、長崎の郷土料理に舌鼓を打ちました。
 2日目は長崎にある碑めぐりに参加しました。朝までの雨が過ごしやすい気候でしたが昼間は少し晴れ間が出る蒸し暑い陽気でした。ひたすら歩き汗をかき、坂を登り、階段を昇り、長崎の街中に少しずつ埋もれゆく碑をまわりました。夕方からガイドの中村さんの案内で行った地元の個室居酒屋に行き長崎の地元料理に舌鼓を打ちました。暑く疲れた体に料理と酒は染み渡りました。ホテルに戻り、最後の夜という事で板橋原水協有志による懇親会が行なわれ、親交を深めました。
 3日目、最終日です。朝からの大雨でしたが9時過ぎにバスに分乗して、全体会の行なわれる長崎市民会館に向かい、豪雨と化した中、会場に入りました。各国からの参加者が1階に座り板橋は2階に座りました。各国からの原水爆禁止を求める様々なスピーチを聞き、核に対する怖さ、早く無くさなければいけない気持ちを深めました。
 もう80年?まだ80年?もっと若い世代に長崎に起こった出来事を、なぜ長崎の人たちがあのような目にあわないといけなかったのかを今、改めて見てほしいと思います。それを未来に向けて伝えていってほしい。なぜ日本被団協がノーベル平和賞を受賞したのかの意味を改めて知ってほしい。そう思いました。

語り継がねばと心打たれ
碑めぐりで被爆者のメッセージに

 長崎には、高校生の時に修学旅行で行きましたが、何十年も前なので記憶の片隅に残っている微かな思い出があります。長崎市民会館体育館での『被爆体験の継承と未来―被爆80年長崎のつどい』に参加しました。会場には2100名、オンラインで500名の方が参加していました。
 『長崎の被爆者運動の歴史と被爆者のたたかい』の題目では、5人の被爆者の方の話を聞き、広島、長崎2つの都市を焼き尽くし21万人の命を奪い、地獄の苦しみは生き残った人にも及び、被爆者は愛する者を奪われた深い悲しみとともに、原爆の後遺症に苦しみ差別と偏見、経済的にも困難を強いられたとの話に胸が痛みました。
 2日目は、碑めぐりに参加しました。たくさん歩いて周りましたが、一番印象に残ったのは『長崎市永井隆記念館』です。長崎医学大学で放射線医学を専門とした医学博士、永井隆さんは、自身も被爆して重症でしたが、被災者の救護活動を2ヶ月間行い、白血病が悪化し寝たきりとなりながらも『長崎の鐘』や『いとし子よ』など多くの著作を通じ、人々に生きる勇気と希望と戦争のおろかさや平和と命の大切さを訴え続けた方です。
 「本当に平和をもらたすのは、ややこしい会議や思想ではなく、ごく単純な愛の力による」「原子爆弾は長崎でおしまい!長崎がピリオド!平和は長崎から」との言葉を残しました。
 私達は、世界中に一人でも戦争を計画している人がいる間は『平和を!』と叫ばずに黙って過ごす権利をもちませんと言った永井さんのメッセージに心が打たれました。ご自身も白血病、被爆で苦しい中、自分には何が出来るか、まだ自分には目と手と頭がある、未来に向けての復興と平和を、と。私達は語り継がなければと強く思った碑めぐりの場所でした。
 戦後80年、日本は唯一の被爆国ですが、核兵器禁止条約に署名していません。何故しないのか!私達は訴え続け、未来の子供達に戦争の無い世界を平和を、命ある限り運動をしていきます。

平和活動をと強く感じた
世界各国で核兵器廃絶の運動が

 原水爆禁止世界大会長崎や原爆碑巡りへの参加を通して、核兵器や戦争がもたらした悲惨な過去について学ぶことができました。
 原水爆禁止世界大会長崎では被爆者の方の体験談や核兵器廃絶を訴えてきた歴史、また世界各国の参加者からの講演があり、様々な立場からの核兵器のない世界への訴えがありました。
 被爆者の体験談では当時の資料とともに、個人の視点からの詳細な状況が語られました。昨日までの日常が一瞬にして失われ、大切な人を失った経験が克明に伝わってきました。
 また核兵器廃絶を訴えてきた歴史では、自身も日常生活を送れないようなひどい被害を受けながらも、核兵器廃絶のために運動の先頭に立ち、被爆の事実が隠蔽される中で全世界に向けて核廃絶を訴えてきた被爆者の歴史が紹介されました。核兵器廃絶のための活動の映像も紹介され、国際機関の会議での核兵器廃絶の熱い訴えと、それを聞いた参加者の鳴りやまない拍手がとても印象に残りました。
 世界各国の参加者からの講演では核兵器保有国、非保有国の両方からの参加者の講演を聞き、世界各国での核兵器廃絶の運動について知ることができました。また高校生による発表もあり、世界各国、若い世代にまで核兵器廃絶の運動が波及していることが分かりました。
 原爆碑巡りでは被爆に関連した建造物や原爆資料館、自身も被爆しながら治療、研究に当たった永井隆氏の記念館などに訪れました。
 原爆で被害を受けながらも校舎を再建し、現在も児童が通う山里小学校、原爆によって吹き飛ばされた鐘楼が今も残る浦上天主堂、山王神社の参道にある、原爆によって左半分が倒壊した一本柱鳥居などを訪れました。原爆によって吹き飛ばされた建造物の一部が今も残っており、その威力の一端を垣間見ることができました。
 今回の原水爆禁止世界大会長崎を通じて核兵器廃絶や、平和に向けた活動の必要性をより強く感じました。

2025年9月1日

「ぜひ建設業へ」
合同就職説明会 ハローワークと共催
順番待ち 受付終了まで続く


ハローワークと共催で行われた合同就職説明会で会社紹介する板橋支部の組合員

 7月29日、ハローワーク(職業安定所)池袋サンシャイン庁舎にて、建設業の合同就職説明会を開きました。ハローワークを通じた呼びかけで、求職者20名が集まりました。

 この説明会は、人手不足が深刻な建設業への入職者を確保しようと、組合とハローワークの思いが一致して、共催で開いたものです。ハローワーク池袋の管轄内にある、板橋・豊島・練馬の各支部から、従業員全員が組合員となる制度をとっている、2社ずつが参加しました

「次回はプレゼンに力を入れたい」

 最初に、組合から本部の渡辺副執行委員長による「初めての建設業入門」と題したセミナーで、建設業の魅力を講演。続いて、各社から紹介PRをおこなった後、各社ブースに分かれての個別説明で、求人活動が活発に行われました。
 個別説明の順番待ちが受付終了時間まで続きました。参加した企業からは、「想像していたよりも反響があった」「次回はプレゼンに力を入れたい」などの感想が寄せられました。
 今後も、建設業の魅力を幅広く発信するとともに、建設業への入職者と組合員を増やす事業を、継続して取組むことにしています。

2025年9月1日

おきたまだより
稲刈り間近の田んぼから


8月末の田んぼ


イノシシが侵入

稲刈り間近の田んぼから

 稲穂も頭を垂れはじめ、もう少しで稲刈りです。今年は水不足と猛暑日が続き、出穂前の生育が悪く、1番欲しい時に水がありませんでした。我が家の半分くらいの圃場は場末にあり、水路に水は無く、カラカラに乾いている状態でした。
 毎日、排水掘りからポンプアップして田んぼに水を入れ、排水掘りの水が無くなれば川からタンクに水を汲んで水を入れて、なんとかここまできました。一昨年と似た状況なので、現在のところ収量はやや悪いのではないかと思われます。
 また、圃場へ猪の侵入などもあり大変です。
 これから畦畔の草刈りをし、稲刈りに備えたいと思います。

2025年9月1日

高島高校から 包丁研ぎの依頼
住宅デーの案内を見て


高島高校からの依頼で包丁を研ぐ、住宅デー実行委員

 7月30日、板橋支部会館で、高島高校から依頼のあった包丁研ぎを行いました。住宅デーの実行委員4名が、分担して作業し、無事に学校へ届けました。
 住宅デーの包丁研ぎの案内を見た高島高校の先生から、「調理室の包丁を研いでほしい」と相談されたものです。

2025年9月1日

土建国保の加入手続き
法人の新入社員は 10日以内に

できれば入社前に組合へ連絡を

 法人事業所の新入社員が土建国保に加入手続きする場合、入社日から14日以内に年金事務所への手続きを完了するルールが厳格化されました。前段の手続きがあるため、組合へは10日以内に手続きをお願いします。できれば入社前に組合へ連絡ください。(板橋支部TEL:3963―5325)

年金事務所の方針転換で

 これまでは、14日を過ぎた時は、加入者・会社の事情説明を受け、年金事務所は受理していましたが、それを年金事務所は認めない、との方針転換があったものです。

2025年9月1日

お 知 ら せ

予算要求ハガキ

 9月群会議で、東京都向けに建設国保の育成・強化、現行水準の補助金確保を求める要請ハガキを取組みます。8月に書いていない方は9月にお願いします。

日曜健診

 10月19日坂下診療所
 10月26日小豆沢病院
 10月26日高島平診療所
 11月8日(土)グリーンホール(女性のみ)
 (締切は約3週間前。平日はほぼ毎日可)
 小豆沢病院では、じん肺・有機溶剤など特殊健診も同時に受診できます。石綿・アーク溶接・MOCAの特殊健診は平日のみ。

9月の専門部会いずれも19:30〜

 19(金) 労働・技術
 24(水) 教宣・財政
 25(木) 賃金・仕事・税金・後継者
 29(月) 組織
 他はありません

会議・休暇のため板橋支部事務所を閉めます

 9月17日(水)午後
 10月2日(木)一日
 10月17日(金)午後

2025年8月1日

終戦80周年 平和特集
私は戦火を生きた 組合員の体験談を聞く
なくすために

 今年は、終戦から80年となる節目の年です。満州事変、日中戦争から太平洋戦争へと拡大し、1945年8月に、日本の降伏で第2次世界大戦が終わりました。日本で310万人、アジア全体で2千万人以上が亡くなりました。
 日本国内では、空襲などで多くの民間人が殺され、戦後も、深刻な食糧難が続き、多くの人が命を落としました。当時を生きた組合員から、貴重な体験を聞きました。

何十機ものB29が毎日イモ畑でうずくまる

 私は、神奈川県の茅ヶ崎に両親・兄弟と7人で住んでいた時、毎晩のようにB29の空襲を受けました。南の海から飛んできて、まず、高射砲があった茅ヶ崎を少し爆撃して、私の頭上を通り、近くにあった有名な寒川神社で旋回します。そして、横須賀の方を爆撃して帰っていきました。
 何十機ものB29が編隊を組んで、うなり音を上げて近づいてきます。父親は、他の家族を先に避難させ、ラジオの雑音が大きくなると、ダメだと言って、私をおんぶして走って逃げました。私は5歳でしたが、子どもの手を引いて逃げるような余裕は、なかったのでしょう。
 防空壕が庭にありましたが、イモ畑の方が安心だと、近所の人はみんなイモ畑でうずくまって、通り過ぎるのを待ちました。何十機ものプロペラの音が地響きする中で、機銃掃射がバババババーと鳴り、その恐ろしさを覚えています。翌日、見渡すと、亡くなった人もいました。私は機銃掃射の跡を、薬きょうを掘りに行って、売りました。
 高射砲を撃ってもB29には届きませんでした。B29をサーチライトで照らしているので、その様子がはっきり見えました。米軍は高射砲が届く高さを知っていたようで、いつも、ほんの少し上の高さを飛んでいました。届かないのに、何のために撃っていたのか、よく分かりませんでした。
 爆撃が激しくなり、いよいよ危ないということで、畑を二束三文で手放して、父の実家の福島県相馬へ疎開しました。その時、汽車へ乗るにも、扉の周りは人がいっぱいなので、窓から乗りました。持っていた釣り竿を、思わず線路へ落としてしまいました。

米は裏山へ毎日隠した 農家も育てたものは全部供出

 私は、福島県の郡山かふたせら20q離れた二瀬村にいました。
 小学生の間は1年から6年まで、ずっと戦争中で、「○○陥落」と言って村でちょうちん行列を毎日やって、出るのが義務でした。
 小学校では、1年生から勤労奉仕で、くわ・かまを背中に背負って、毎日、かぼちゃ作りをさせられました。授業は全然なく、先生も年配の代用教員で、かぼちゃ作りを教わりました。生徒は、良いかぼちゃを作ろうと競争になりました。
 わらび・ふき等の山菜採りを学校でやって、リヤカーで郡山まで売りに行きました。5人組で往復40qを、わらぞうりの替えを2足ぶら下げて歩き、夜になって戻ってきました。売上金は学校へ渡しました。
 学校の畑仕事をしていて、米軍機が飛んできた時は、みんな道路に出て喜んで見ていました。「とんぼ」と呼んでいた日本軍の赤い練習機しか見たことがなかったので、金属の色の飛行機はめずらしかったのです。3機くらいで編隊を組んで、小名浜や郡山などを爆撃した帰り道なのか、よく飛んできました。ちょうど今、板橋上空の飛行機と同じくらいの高さです。
 ある日、米軍機を道路に出て見ていると、目の前を3発、機銃掃射され煙が上がりました。まさか、飛行機から撃たれるとは思っていませんでした。学校教育の影響で、死ぬのがこわいとかは、全然ありませんでした。
 農家でしたが、育てたものは全部、供出させられました。コメも、家宅捜索に入られて見つかると没収されるので、朝、米俵を裏山へかくして、夜は濡れないように家へ入れました。
 学校の畑仕事から帰ると、すぐに山菜採りに行きました。山菜は育てたものではないので、供出はありません。タラの芽は一番よく食べました。
 終戦後も、食糧難とモノ不足が続きました。父は営林署に勤めていたので、長靴などが特別に支給されました。雪の日に長靴をはいて学校に行ったら、「何でおまえだけ」と先生に怒られました。大工になった時も、営林署から支給された地下足袋で行ったら、親方から「お前一人だけ何だ」と怒られました。大工もみんな、まだ、わらぞうりでした。

明日死ぬと航空隊員
家に来て「飯盒をもらってくれ」

 私は、鹿児島県の垂水という、鹿児島市から船で桜島の反対側に渡った所の町にいました。終戦当時は小学4年生でした。
 小学校の入学式の最中に、米軍機が飛んできて、上級生におんぶされて防空壕に逃げました。その頃は、まだ、偵察だったのか、爆撃はありませんでした。
 それからは、ほぼ毎日、空襲ばかりで、学校の授業もろくにできず、私が九九を習ったのは、戦後、6年生になってからです。学校では、毎朝、竹やり練習がありました。わら人形を作って、学校に配属された兵隊の指導で、竹やりで刺すのです。近所の大人はバケツリレー練習です。兵隊が学校を裏山からいつも見張っていました。学校の庭にざんごう溝を掘り、塹壕にして、そこから銃を撃てるようにしました。
 学校は、はだしでないと怒られるので、行く途中、ぞうりを脱いで、かくして、帰りも途中からぞうりをはきました。
 家に居た時の空襲で、家の周りが竹やぶだったので、大丈夫だろうと父親と一緒に見ていたら、機銃掃射を受けました。弾が家の戸袋に当たって、命拾いしましたが、とても怖かったです。周りが竹やぶでも、上空からは家や人がよく見えることに、後で気づきました。
 鹿児島市内が全滅した空襲は、夜、田んぼからよく見えました。高射砲を撃って弾が上がっていくけど、米軍機に届きませんでした。終戦直前は、もう撃たず、反撃の飛行機も飛びませんでした。
 近くの川に焼夷弾がよく落とされました。見に行くと、油みたいな緑色のドロッとした液体があり、水をかけると飛んで燃える性質らしく、川が燃えていました。田んぼに10mくらいの穴があちこち開いていました。
 駐屯地や飛行場が近くにあり、港の桟橋は兵隊が泳ぐ練習で使っていました。日曜日には、福島出身だという部隊がよく来て、もちつきや農作業を手伝い、帰りに土産でもちや食べ物をこっそりズボンの中に入れて帰っていきました。
 航空隊の人が、半分酔っぱらって、「明日死ぬはんごうから、飯盒をもらってくれ」と来たことが何回もありました。
 農家で海も近いので、食べ物には不自由しませんでしたが、兵隊が家に入って食べ物を持っていかれ、不自由している人もいました。なので、コメやイモは山の中に埋めて、かくしておきました。
 終戦前、「敵が上陸する」というウワサで、鹿児島市内から、たくさんの人が逃げてきました。民家に泊めてもらったり、防空壕を掘って暮らし始めて、町は大騒ぎでした。

再び戦争を

学校帰りに機銃掃射
いとこが麦畑に押し倒してくれた

 私は、終戦の年に、八王子の郊外の北野小学校へ入学しました。それまでは杉並に住んでいたので、本来は杉並第4小学校に入学する予定でした。しかし、3月10日の東京大空襲で、夜空が真っ赤になって燃えているのを見て、このままでは危ないと、仕事がある父と長兄を残して、家族で疎開しました。親戚の農家の納屋に、私と母・弟・兄・祖母の5人が、6畳1間で暮らしました。
 7月の夏休みの少し前でしたが、学校帰りに、B29が飛んできて機銃掃射を受けました。その時、一緒に歩いていた、近くに住む6年生のいとこが、とっさに私を道端へ押し倒して、二人で麦畑に突っ伏して、かくれました。その頃は、まだ1年生で、よく分かっていなかったので、恐怖心はあまりなかったのですが、ともあれ、命拾いしました。
 8月2日に、八王子大空襲がありました。この空襲は、東京大空襲に匹敵する1600dの焼夷弾が落とされ、市街地の80%が焼失しました。私は、近くの山へ逃げた時、八王子の町が、東京大空襲の時と同じように燃えているのを、山から眺めていました。
 終戦後、10月に練馬区富士見へ引っ越しましたが、近くの小学校が爆弾でやられていて、別の小学校へ通いました。都内は食べ物がなく、社宅の空き地を畑にして野菜を作り、コメなどは母がリュックを背負って買い出しに奔走していました。

疎開し空襲は無いが漁村には物が入ってこない

 私は、小学1年生まで大阪にいましたが、年がら年中、空襲警報で、空襲の中、家へ帰らせられ、家の周りの防空壕へかくれました。もう危ないので実家のある人は田舎へ家族ごと移るようにと言われて、福井県の玉川という30軒くらいの漁村に引っ越しました。
 最初、ボタンの制服と革靴で学校へ登校したらみんな着物だったので、いじめられました。ここは空襲がないので、大阪とは違い、学校で授業がありました。B29が何十機も低空で通り過ぎるだけで、山の上から石を投げた記憶があります。
 戦争中は流通が壊れていたので、船でしか行けない、ヘンピな所には、物が入ってきません。魚と野菜が取れた時に、保存食を作るしかありません。主食のサツマイモや大根、豆などは1年分保管。その頃は、ワカメや天草が豊富にあったので干したり、「へしこ」という魚の塩漬けを作りました。みそ、しょうゆを作るにも、海水を煮て塩を作る作業から、家族総出で、やらされました。野ウサギを、わなをかけて捕まえて、海岸でさばいて肉を持ち帰りました。
 終戦時は小学3年生でした。舞鶴や敦賀の基地に残っていた火薬を箱のまま海に流したようで、流れ着いた硫黄を溶かしてマッチを作りました。隣村に買取り業者ができて、サザエを素潜りで採って、こづかいにしました。毎日やっていると、14〜15mくらい、もぐれるようになりました。

空襲後は鉄クズ拾い 不発弾で子どもが何人も犠牲

 私は、埼玉県大里郡御しょう正村に住んでいました。荒川の対岸は、熊谷の町でした。
 近くに飛行場があったので、夜中によく空襲がありました。集落の火の見やぐらから鐘をたたいて「逃げろ」と言われると、家の庭先の、小さな防空壕に入りました。そのうち、鐘がなくなりました。金属だからと、供出させられたようです。
 焼夷弾がいっぱい落ちていると聞いて、見に行ったら、荒川の土手からは、川沿いに石や砂利が真っ白になって見えました。所々に焼夷弾のようなものが地面に刺さってまだ燃えていました。
 大人は飛行場へ働きに行っていました。子どもは鉄クズ拾いです。爆弾の筒みたいなものが結構、落ちていました。不発弾で吹き飛ばされて、何人も死んだようです。
 父は、中国のハルビンへ兵隊で行き、休暇で何日か家にいると、戻っていきました。父は、「戦闘になると、えらい人は一番後ろにいて、逃げる人を銃で撃っている」と話していました。
 食べ物は、食糧難なので、サツマイモばかり食べていました。小学校の校長が「みんな、弁当はサツマイモを持ってくるように」と言ったので、サツマイモだけを紙に包んで持っていきました。
 馬に乗って田畑を耕すのを手伝っていました。ですが、コメはほとんど食べられませんでした。他には、父が持ってきた、たくさんの乾パンをよく食べました。それくらいなので、近くにいた親戚には助けられました。
 小学校に行くと、毎朝、兵隊が7人くらい校門に立っていました。それが小学2年だった終戦後、学校へ行く途中に、道の向こうから、数えきれないほど何千人もの兵隊がやってきて、驚きました。すれ違うと、兵隊の服がいつもとは違いました。進駐軍でした。その後、進駐軍は、町のあちこちにいて、駅では何年間も見張っていました。
 私の名は「モテギ」だったのですが、父が兵隊で、上官から「モテギとは読めないぞ」と言って、ベルトでたたかれて、いじめられたことから、「モギ」に変えました。

タスキをつなぎ 平和行進で受け渡す


核兵器廃絶と平和を訴えて中山道を歩く平和行進の参加者

 【書記局・金綱祥瑚・記】7月22日、板橋区見次公園から北区中央公園まで国民平和大行進が行われ、120名が集まりました。国民平和大行進は全国で様々な団体がタスキをつなぎながら、核兵器廃絶と平和を訴えて行進するイベントで、板橋区は埼玉県からタスキを受取りました。
 最初の引継ぎ式では、無事タスキをつなぎ、埼玉と板橋の原水協や来賓の議員のあいさつがあった後、行進が開始されました。当日は気温30度を超える猛暑で、日差しも強い日でしたが、沿道の声援を受け、荒馬座の演奏とともに約2時間半、元気に行進しました。世
 界各地で紛争が起き、核兵器使用の懸念が高まる中、平和を訴える重要性がますます高まっていると感じました。

板橋でも空襲被害 死者500人以上


板橋には軍需工場や基地が多くあったため、空襲で大きな被害を受けました。

 1945年4〜6月にかけての空襲で、死者500人以上、罹災者約6万人、被害家屋1万1千軒以上、とされています。4月13日の空襲では、東京大空襲よりも多い爆弾が投下され、板橋駅から大山にかけて一帯が焼け野原になりました。
 6月10日の空襲では、東山町にあった市場周辺が爆撃や機銃掃射を受け269人が死亡したとされていますが、近くの寺の安養院には300体以上が運ばれ仮埋葬がされています。南常盤台の天祖神社には、この時に機銃掃射を受けた狛犬に、今も跡が残っています。
 成増には首都防衛のため飛行場が1944年4月に作られましたが、高度1万mを飛ぶB29には反撃できず、1944年11月からは、体当たり攻撃が行われるようになりました。
 戦後は、陸軍第二造兵しょう廠がかくし持っていた物資が見つかり、住民が配給を求める「板橋事件」が起きています。
 板橋区は、造兵廠跡地を今年秋に発掘調査して、今後、史跡公園として整備する計画です。

2025年3月1日

土建国保に関する届け出をお願いします

 @転居して住所が変わった
 A家族が増えた
 B家族が減った(子どもが就職して社会保険に加入したなど)
 C事業の形態などが変わった(「会社を設立した」「従業員を雇った」など)
 このような場合、届け出が必要になりますので手続きをお願いします。詳しくは支部事務所へお問い合わせください。TEL:03―3963―5325

2025年3月1日

板橋区内の健康診断提携病院一覧

※平日も受診できます。予約して受診してください。

 小豆沢病院健診センター TEL:03―3968―7041
   板橋区小豆沢1―6―8
 下赤塚診療所 TEL:03―3979―6361
   板橋区赤塚2―9―4―1F
 小豆沢病院付属高島平診療所 TEL:03―3932―3394
   板橋区高島平8―1―1
 坂下診療所 TEL:03―3966―3349
   板橋区坂下1―12―20
 林クリニック TEL:03―3956―2090
   板橋区小茂根4―28―14
 IMS ME―LIFEクリニック板橋 TEL:03―3967―1515
   板橋区小豆沢2―23―15
《問い合わせ先》東京土建板橋支部 TEL:03―3963―5325