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2025年8月1日

公契約条例を一緒に
区発注工事の実態を聞 地元業界団体と懇談く


労働環境改善や公契約条例について意見交換した板橋区建設関連協会との懇談

 7月15日、地元業界団体の訪問行動を取組みました。板橋区建設関連協会を組合の役員・書記4名が訪問し、協会側は3社が参加して懇談を行いました。
 熱中症や現場の安全対策について、各社から、「この時期は休憩をこまめに取らないと、集中力が続かない」「なるべく送風機付き作業服の着用をお願いしている」など、下請への文書配布や現場巡視などの実施が報告されました。
 建設現場の労働環境改善を主な目的に、昨年、建設業法など『担い手3法』が改正されたことについては、板橋区発注工事では十分に反映させておらず、「担当者によっては金額しか見ていない」などの実態が話されました。
 また、アスベスト対策について、「板橋区は石綿建材の事前調査をしっかりやってほしい」などの要望を聞きました。
 公契約条例の制定を板橋区に求めることでは、「区の職員の積算能力が落ちている」「公契約が導入されると、価格交渉の手間が省ける」などと話し、「公契約条例を一緒に取組んでいきましょう」と呼びかけると、「ぜひ」と答えました。
 現場改善への努力を宣言した「パートナーシップ協約」は、以前に結んだ協約が今も有効なのを確認しました。
 今回、協会側から出された声や要望は、組合が行政との交渉で追及することを伝えるとともに、今後も連携して取組むことを確認しました。

2025年8月1日

住宅デーでの募金 社会福祉協議会へ渡す


住宅デーで集まった募金を社会福祉協議会へ渡す林副委員長

包丁研ぎなどの奉仕活動で集まる

 7月22日、社会福祉協議会を、林副委員長ら役員が訪問し、住宅デーで集まった募金を手渡しました。
 6月8日に開催した住宅デーでは、各分会で、包丁研ぎやまな板削りなどの、地域住民への奉仕活動を行いました。その際に、6万7458円の募金が集まりました。

2025年8月1日

労働学校 で学ぶ対話の運動が ますます大切に


「地域に根ざした労働運動がますます重要」と労働学校で話す江口先生

 【教育宣伝部長・吉田広基・記】7月13日(日)板橋支部会館にて労働学校が行われ、18名が参加しました。
 午前中には第1講として『憲法と建設労働運動』というテーマで、代々木総合法律事務所の弁護士の生駒巌先生による講義でした。
 日本国憲法の中から重点を分かりやすい説明で学ぶことができました。特に、私たち建設に携わる仲間に関係が深い労働基本権の第27条、28条についての話と、第9条の戦争放棄、軍備及び交戦権の否認の部分の解釈の変遷について再認識することができたと思います。
 憲法は日本のあるべき国の形を定めたもので、守る義務を負うのは国です。それをさせることが我々の生活を守ることにつながるということを意識していきたいです。

トランプや排外主義台頭する背景は同じ

 そして午後は第2講として『新自由主義と闘う世界と日本の労働運動、その到達と課題』というテーマで、東京労働者学習協会の常任理事の江口健志先生による講義でした。
 激動の情勢の中、アメリカのトランプ政権の暴走や日本でも排外主義が台頭する背景が、これまでの新自由主義によって格差と貧困を生んだことにあるのを学びました。そして世界の労働運動の現状を知り、ますます必要な日本の労働運動の課題や役割、特に土建の地域運動について、仲間や地域住民との「対話」によってつながりをつくって盛り上げていくことが大切であることを知りました。
 最後に参加者を3つのグループに分けて本日の感想を話し合い、総括の発表をして閉会となりました。参加された皆さんは仲間との話題にしていただけたら幸いです。

2025年8月1日

終戦80周年 平和特集
私は戦火を生きた 組合員の体験談を聞く
なくすために

 今年は、終戦から80年となる節目の年です。満州事変、日中戦争から太平洋戦争へと拡大し、1945年8月に、日本の降伏で第2次世界大戦が終わりました。日本で310万人、アジア全体で2千万人以上が亡くなりました。
 日本国内では、空襲などで多くの民間人が殺され、戦後も、深刻な食糧難が続き、多くの人が命を落としました。当時を生きた組合員から、貴重な体験を聞きました。

何十機ものB29が毎日イモ畑でうずくまる

 私は、神奈川県の茅ヶ崎に両親・兄弟と7人で住んでいた時、毎晩のようにB29の空襲を受けました。南の海から飛んできて、まず、高射砲があった茅ヶ崎を少し爆撃して、私の頭上を通り、近くにあった有名な寒川神社で旋回します。そして、横須賀の方を爆撃して帰っていきました。
 何十機ものB29が編隊を組んで、うなり音を上げて近づいてきます。父親は、他の家族を先に避難させ、ラジオの雑音が大きくなると、ダメだと言って、私をおんぶして走って逃げました。私は5歳でしたが、子どもの手を引いて逃げるような余裕は、なかったのでしょう。
 防空壕が庭にありましたが、イモ畑の方が安心だと、近所の人はみんなイモ畑でうずくまって、通り過ぎるのを待ちました。何十機ものプロペラの音が地響きする中で、機銃掃射がバババババーと鳴り、その恐ろしさを覚えています。翌日、見渡すと、亡くなった人もいました。私は機銃掃射の跡を、薬きょうを掘りに行って、売りました。
 高射砲を撃ってもB29には届きませんでした。B29をサーチライトで照らしているので、その様子がはっきり見えました。米軍は高射砲が届く高さを知っていたようで、いつも、ほんの少し上の高さを飛んでいました。届かないのに、何のために撃っていたのか、よく分かりませんでした。
 爆撃が激しくなり、いよいよ危ないということで、畑を二束三文で手放して、父の実家の福島県相馬へ疎開しました。その時、汽車へ乗るにも、扉の周りは人がいっぱいなので、窓から乗りました。持っていた釣り竿を、思わず線路へ落としてしまいました。

米は裏山へ毎日隠した 農家も育てたものは全部供出

 私は、福島県の郡山かふたせら20q離れた二瀬村にいました。
 小学生の間は1年から6年まで、ずっと戦争中で、「○○陥落」と言って村でちょうちん行列を毎日やって、出るのが義務でした。
 小学校では、1年生から勤労奉仕で、くわ・かまを背中に背負って、毎日、かぼちゃ作りをさせられました。授業は全然なく、先生も年配の代用教員で、かぼちゃ作りを教わりました。生徒は、良いかぼちゃを作ろうと競争になりました。
 わらび・ふき等の山菜採りを学校でやって、リヤカーで郡山まで売りに行きました。5人組で往復40qを、わらぞうりの替えを2足ぶら下げて歩き、夜になって戻ってきました。売上金は学校へ渡しました。
 学校の畑仕事をしていて、米軍機が飛んできた時は、みんな道路に出て喜んで見ていました。「とんぼ」と呼んでいた日本軍の赤い練習機しか見たことがなかったので、金属の色の飛行機はめずらしかったのです。3機くらいで編隊を組んで、小名浜や郡山などを爆撃した帰り道なのか、よく飛んできました。ちょうど今、板橋上空の飛行機と同じくらいの高さです。
 ある日、米軍機を道路に出て見ていると、目の前を3発、機銃掃射され煙が上がりました。まさか、飛行機から撃たれるとは思っていませんでした。学校教育の影響で、死ぬのがこわいとかは、全然ありませんでした。
 農家でしたが、育てたものは全部、供出させられました。コメも、家宅捜索に入られて見つかると没収されるので、朝、米俵を裏山へかくして、夜は濡れないように家へ入れました。
 学校の畑仕事から帰ると、すぐに山菜採りに行きました。山菜は育てたものではないので、供出はありません。タラの芽は一番よく食べました。
 終戦後も、食糧難とモノ不足が続きました。父は営林署に勤めていたので、長靴などが特別に支給されました。雪の日に長靴をはいて学校に行ったら、「何でおまえだけ」と先生に怒られました。大工になった時も、営林署から支給された地下足袋で行ったら、親方から「お前一人だけ何だ」と怒られました。大工もみんな、まだ、わらぞうりでした。

明日死ぬと航空隊員
家に来て「飯盒をもらってくれ」

 私は、鹿児島県の垂水という、鹿児島市から船で桜島の反対側に渡った所の町にいました。終戦当時は小学4年生でした。
 小学校の入学式の最中に、米軍機が飛んできて、上級生におんぶされて防空壕に逃げました。その頃は、まだ、偵察だったのか、爆撃はありませんでした。
 それからは、ほぼ毎日、空襲ばかりで、学校の授業もろくにできず、私が九九を習ったのは、戦後、6年生になってからです。学校では、毎朝、竹やり練習がありました。わら人形を作って、学校に配属された兵隊の指導で、竹やりで刺すのです。近所の大人はバケツリレー練習です。兵隊が学校を裏山からいつも見張っていました。学校の庭にざんごう溝を掘り、塹壕にして、そこから銃を撃てるようにしました。
 学校は、はだしでないと怒られるので、行く途中、ぞうりを脱いで、かくして、帰りも途中からぞうりをはきました。
 家に居た時の空襲で、家の周りが竹やぶだったので、大丈夫だろうと父親と一緒に見ていたら、機銃掃射を受けました。弾が家の戸袋に当たって、命拾いしましたが、とても怖かったです。周りが竹やぶでも、上空からは家や人がよく見えることに、後で気づきました。
 鹿児島市内が全滅した空襲は、夜、田んぼからよく見えました。高射砲を撃って弾が上がっていくけど、米軍機に届きませんでした。終戦直前は、もう撃たず、反撃の飛行機も飛びませんでした。
 近くの川に焼夷弾がよく落とされました。見に行くと、油みたいな緑色のドロッとした液体があり、水をかけると飛んで燃える性質らしく、川が燃えていました。田んぼに10mくらいの穴があちこち開いていました。
 駐屯地や飛行場が近くにあり、港の桟橋は兵隊が泳ぐ練習で使っていました。日曜日には、福島出身だという部隊がよく来て、もちつきや農作業を手伝い、帰りに土産でもちや食べ物をこっそりズボンの中に入れて帰っていきました。
 航空隊の人が、半分酔っぱらって、「明日死ぬはんごうから、飯盒をもらってくれ」と来たことが何回もありました。
 農家で海も近いので、食べ物には不自由しませんでしたが、兵隊が家に入って食べ物を持っていかれ、不自由している人もいました。なので、コメやイモは山の中に埋めて、かくしておきました。
 終戦前、「敵が上陸する」というウワサで、鹿児島市内から、たくさんの人が逃げてきました。民家に泊めてもらったり、防空壕を掘って暮らし始めて、町は大騒ぎでした。

再び戦争を

学校帰りに機銃掃射
いとこが麦畑に押し倒してくれた

 私は、終戦の年に、八王子の郊外の北野小学校へ入学しました。それまでは杉並に住んでいたので、本来は杉並第4小学校に入学する予定でした。しかし、3月10日の東京大空襲で、夜空が真っ赤になって燃えているのを見て、このままでは危ないと、仕事がある父と長兄を残して、家族で疎開しました。親戚の農家の納屋に、私と母・弟・兄・祖母の5人が、6畳1間で暮らしました。
 7月の夏休みの少し前でしたが、学校帰りに、B29が飛んできて機銃掃射を受けました。その時、一緒に歩いていた、近くに住む6年生のいとこが、とっさに私を道端へ押し倒して、二人で麦畑に突っ伏して、かくれました。その頃は、まだ1年生で、よく分かっていなかったので、恐怖心はあまりなかったのですが、ともあれ、命拾いしました。
 8月2日に、八王子大空襲がありました。この空襲は、東京大空襲に匹敵する1600dの焼夷弾が落とされ、市街地の80%が焼失しました。私は、近くの山へ逃げた時、八王子の町が、東京大空襲の時と同じように燃えているのを、山から眺めていました。
 終戦後、10月に練馬区富士見へ引っ越しましたが、近くの小学校が爆弾でやられていて、別の小学校へ通いました。都内は食べ物がなく、社宅の空き地を畑にして野菜を作り、コメなどは母がリュックを背負って買い出しに奔走していました。

疎開し空襲は無いが漁村には物が入ってこない

 私は、小学1年生まで大阪にいましたが、年がら年中、空襲警報で、空襲の中、家へ帰らせられ、家の周りの防空壕へかくれました。もう危ないので実家のある人は田舎へ家族ごと移るようにと言われて、福井県の玉川という30軒くらいの漁村に引っ越しました。
 最初、ボタンの制服と革靴で学校へ登校したらみんな着物だったので、いじめられました。ここは空襲がないので、大阪とは違い、学校で授業がありました。B29が何十機も低空で通り過ぎるだけで、山の上から石を投げた記憶があります。
 戦争中は流通が壊れていたので、船でしか行けない、ヘンピな所には、物が入ってきません。魚と野菜が取れた時に、保存食を作るしかありません。主食のサツマイモや大根、豆などは1年分保管。その頃は、ワカメや天草が豊富にあったので干したり、「へしこ」という魚の塩漬けを作りました。みそ、しょうゆを作るにも、海水を煮て塩を作る作業から、家族総出で、やらされました。野ウサギを、わなをかけて捕まえて、海岸でさばいて肉を持ち帰りました。
 終戦時は小学3年生でした。舞鶴や敦賀の基地に残っていた火薬を箱のまま海に流したようで、流れ着いた硫黄を溶かしてマッチを作りました。隣村に買取り業者ができて、サザエを素潜りで採って、こづかいにしました。毎日やっていると、14〜15mくらい、もぐれるようになりました。

空襲後は鉄クズ拾い 不発弾で子どもが何人も犠牲

 私は、埼玉県大里郡御しょう正村に住んでいました。荒川の対岸は、熊谷の町でした。
 近くに飛行場があったので、夜中によく空襲がありました。集落の火の見やぐらから鐘をたたいて「逃げろ」と言われると、家の庭先の、小さな防空壕に入りました。そのうち、鐘がなくなりました。金属だからと、供出させられたようです。
 焼夷弾がいっぱい落ちていると聞いて、見に行ったら、荒川の土手からは、川沿いに石や砂利が真っ白になって見えました。所々に焼夷弾のようなものが地面に刺さってまだ燃えていました。
 大人は飛行場へ働きに行っていました。子どもは鉄クズ拾いです。爆弾の筒みたいなものが結構、落ちていました。不発弾で吹き飛ばされて、何人も死んだようです。
 父は、中国のハルビンへ兵隊で行き、休暇で何日か家にいると、戻っていきました。父は、「戦闘になると、えらい人は一番後ろにいて、逃げる人を銃で撃っている」と話していました。
 食べ物は、食糧難なので、サツマイモばかり食べていました。小学校の校長が「みんな、弁当はサツマイモを持ってくるように」と言ったので、サツマイモだけを紙に包んで持っていきました。
 馬に乗って田畑を耕すのを手伝っていました。ですが、コメはほとんど食べられませんでした。他には、父が持ってきた、たくさんの乾パンをよく食べました。それくらいなので、近くにいた親戚には助けられました。
 小学校に行くと、毎朝、兵隊が7人くらい校門に立っていました。それが小学2年だった終戦後、学校へ行く途中に、道の向こうから、数えきれないほど何千人もの兵隊がやってきて、驚きました。すれ違うと、兵隊の服がいつもとは違いました。進駐軍でした。その後、進駐軍は、町のあちこちにいて、駅では何年間も見張っていました。
 私の名は「モテギ」だったのですが、父が兵隊で、上官から「モテギとは読めないぞ」と言って、ベルトでたたかれて、いじめられたことから、「モギ」に変えました。

タスキをつなぎ 平和行進で受け渡す


核兵器廃絶と平和を訴えて中山道を歩く平和行進の参加者

 【書記局・金綱祥瑚・記】7月22日、板橋区見次公園から北区中央公園まで国民平和大行進が行われ、120名が集まりました。国民平和大行進は全国で様々な団体がタスキをつなぎながら、核兵器廃絶と平和を訴えて行進するイベントで、板橋区は埼玉県からタスキを受取りました。
 最初の引継ぎ式では、無事タスキをつなぎ、埼玉と板橋の原水協や来賓の議員のあいさつがあった後、行進が開始されました。当日は気温30度を超える猛暑で、日差しも強い日でしたが、沿道の声援を受け、荒馬座の演奏とともに約2時間半、元気に行進しました。世
 界各地で紛争が起き、核兵器使用の懸念が高まる中、平和を訴える重要性がますます高まっていると感じました。

板橋でも空襲被害 死者500人以上


板橋には軍需工場や基地が多くあったため、空襲で大きな被害を受けました。

 1945年4〜6月にかけての空襲で、死者500人以上、罹災者約6万人、被害家屋1万1千軒以上、とされています。4月13日の空襲では、東京大空襲よりも多い爆弾が投下され、板橋駅から大山にかけて一帯が焼け野原になりました。
 6月10日の空襲では、東山町にあった市場周辺が爆撃や機銃掃射を受け269人が死亡したとされていますが、近くの寺の安養院には300体以上が運ばれ仮埋葬がされています。南常盤台の天祖神社には、この時に機銃掃射を受けた狛犬に、今も跡が残っています。
 成増には首都防衛のため飛行場が1944年4月に作られましたが、高度1万mを飛ぶB29には反撃できず、1944年11月からは、体当たり攻撃が行われるようになりました。
 戦後は、陸軍第二造兵しょう廠がかくし持っていた物資が見つかり、住民が配給を求める「板橋事件」が起きています。
 板橋区は、造兵廠跡地を今年秋に発掘調査して、今後、史跡公園として整備する計画です。

2025年8月1日

生活を互いに支え合う
ろうきん 労働組合が作った金融機関
組合員なら誰でも利用できる

 ろうきん(労働金庫)は、労働組合が作った金融機関です。ろうきんを利用することで、他の産業も含めた労働者の生活を、お互いに支え合うことができます。組合員が利用できる魅力の一つとして紹介します。

 話を伺ったのは、ろうきん板橋支店の平賀健太郎さんです。平賀さんは、「ろうきんは、働く仲間が作った福祉金融機関という位置づけです。銀行とは違って、非営利だからこそ、組合員の生活が助かるような制度を作っています」として、大きく違うのは、手数料とローン金利だと言います。そして、「組合員の方なら利用できます」と話します。

入出金の手数料実質0円

 銀行だと入出金のたびに数百円を取られます。「ろうきんも手数料がかかりますが、即時に戻すので、実質0円です」「誰でも、時間帯に関係なく、何度でも」と話します。全国のほとんどの銀行・コンビニATMで使えるとのこと。現場や出張先で急にお金を下ろす際に、手数料を気にせずに、メンタルに良さそうです。
 ただ、ろうきんは店舗が少ないため、通帳記帳がおそろかになりがちです。「その点は、スマホから入出金の明細を照会できます。別の登録をすれば振込もできます」と、他の銀行と同様のフォローがされています。

ローン金利は断然低い

 ローン金利は、他の銀行よりも全然低いのが特徴です。「企業には融資しませんが、個人向けに、住宅ローン、車のローン、教育ローン、カードローンが主に利用されています」とのこと。他の銀行でローンを組んでいる人には、「借り換えがオススメです。ろうきんは金利が低いので、元金を減らして、総支払額を軽減できます」と話します。
 口座の開設は、組合員なら誰でもできます。ローンは、審査があるため誰でもとはいきませんが、これまでに多くの組合員が利用して助かっています。

2025年8月1日

定額減税で
恩恵受けてない人に ようやく給付金 区から案内届く

 2024年に定額減税が実施されましたが、まだ減税の恩恵を受けていなかった人への対応が、ようやく実施されることになりました。
 対象は、今年3月の確定申告で定額減税を引ききれなかった人や、子どもの出生などで扶養親族が増えて定額減税の対象が増えた人、事業専従者など定額減税の対象外とされた人などです。
 対象者への案内が、区役所から順次、発送される予定です。申請手続きが必要な人と不要な人がおり、案内に記載されています。

役人泣かせの膨大な作業 モレのおそれも

 ただし、区役所が対象者を拾い出す作業で、モレが出るおそれがあります。区の職員が確定申告書から一枚一枚点検して拾うため、大変な労力だと想像されます。
 自分が対象のはずなのに、9月になっても届かない場合や、届いたけど方法がよく分からない場合は、電話で確認しましょう。
 板橋区は給付金コールセンター TEL:6630―5976(土・日を除く9〜17時)。

定額減税とは
増税メガネの思いつき 実施に2年かかり尻ぬぐいが大変

 「増税メガネ」こと、岸田前首相は、増税を連発して国民の反感を買い、あだ名が流行しました。ムキになった岸田内閣は定額減税を2023年秋に発表しました。
 十分な検討をせず、とにかく「減税」を決めたため、事業所には複雑な事務が、役所には膨大な作業が押しつけられました。実施に2年かかり、その最終処理が今回行われます。

所得税3万・住民税1万を家族人数

 定額減税は、2024年分の所得税と住民税が対象です。所得税は1人3万円、住民税は1万円が家族人数分、一律に減税されるものでした。
 ところが、一律のはずが、事業専従者(=家族が働いた分の給与)などは定額減税の対象外とされ、「差別だ」と組合でも抗議しました。
 また、低賃金と高齢化社会に伴い、納税額が定額減税より低い人や、そもそも納税額がゼロの人が、とても多くいます。

定額減税を引ききれない人に給付金

 そこで、選挙対策もあり、「全国民に4万円」を行き渡らせるとして、定額減税を引ききれない人には、その分の給付金を渡すことになりました。
 なお、定額減税を引ききれないと区役所が見込んだ人には、すでに給付金が支給されています。

2重に定額減税はごっつあんで良い

 給与と年金などから2重3重に定額減税を受けた人がいます。当初は、確定申告で返納が必要としていましたが、その後、返納不要とされました。
 「ごっつあんです」が通じる、なんて、おかしな税金制度を作ったことか。事業所泣かせ・役人泣かせで、ハチャメチャになり、国が管理しきれないのでしょう。思いつきで政治をすると、尻ぬぐいが大変でした。

2025年8月1日

お 知 ら せ

宿泊旅行補助
 土建国保加入者は、本人・家族が宿泊施設を利用したとき、年度内に1回申請できます。「土建国保ガイド」の巻末にある支給申請書に、宿泊施設の証明をもらい、健康診断の受診状況を記入して、群会議で提出して下さい。75歳以上の組合員も申請できます。

予算要求ハガキ
 8〜9月の群会議で、東京都向けに建設国保の育成・強化、現行水準の補助金確保を求める要請ハガキを取組みます。

熟年の集い
 9月8日(月)18:30〜グリーンホール
 対象は65歳以上の組合員
 申込は8月群会議でまたは群役員へ

PAL従事者会議
 9月7日(日)14:00〜板橋支部会館
 秋の大手企業交渉に向けて、現場情報や要求の集約を行ないます。

日曜健診
 9月21日下赤塚診療所  9月28日小豆沢病院  10月19日坂下診療所  (締切は約3週間前。平日はほぼ毎日可)  小豆沢病院では、じん肺・有機溶剤など特殊健診も同時に受診できます。石綿・アーク溶接・MOCAの特殊健診は平日のみ。
 8月の専門部会 いずれも19:30〜
 22(金) 賃金・労働・仕事・技術
 25(月) 財政
 26(火) 社保19:00〜
 27(水) 組織・教宣・後継者
 28(木) 厚文
 他はありません

会議・休暇のため板橋支部事務所を閉めます
 8月8日(金)〜17(日)夏季休暇
 8月18日(月)午後
 9月2日(火)一日

2025年7月1日

熱中症対策 第3弾
体から熱を逃がす 梅雨明け直後と盆明けがピーク

 熱中症による労働災害は、梅雨明け直後と盆明けがピークとなっています。この時期をどう乗り越えるかが、カギとなります。

梅雨明け直後は、体へのダメージが大きい

 5月号でお伝えしたように、人が感じる暑さは、気温の影響に比べて、湿度は7倍、輻射熱は2倍の影響があります。
 梅雨明け直後は、まだ湿度が高い状態に加えて、照り返しなどの輻射熱が加わるため、体へのダメージが大きくなります。

汗を蒸発させて気化熱を奪い、体を冷却する

 人間は、体温を一定に保つ恒温動物です。気温が高くなったり低くなったりしても、体内(内臓)の温度は約37℃で一定に保たれています。
 食事や運動によって体内に生まれた熱を、体外へ放散して、体温を一定に維持しています。
 熱を体外へ放散するのに、最も効率的なのは、汗をかいて皮膚から水分を蒸発させることです。その際に体から熱を奪う気化熱作用で、体を冷却します。
 しかし、湿度が高い環境では、汗が蒸発しにくく、大量の汗だけが続いて、体温が上昇してしまいます。送風機付き作業服は、服の中を強制的に通風して汗を蒸発させるため、理にかなった、スグレものです。

暑さに慣れるとは汗を早く出し始められるようになる

 自律神経は、連続5日間、1日2時間以上、暑い環境にさらされると、わずかな体温の上昇でも汗を出し始められるようになり、心臓と脳の温度上昇をいち早く抑えられるようになります。
 したがって、暑い環境での作業時間を、徐々に長くしていき、1週間以上かけて暑さに慣れるようにするのが良いです。

汗で塩分を失う量が大幅に減少

 暑い環境に4〜6週間さらされると、汗で塩分を失う量が2〜3割に、おさえられるようになります。

暑さを中断すると、慣れは失われる

 逆に、暑い環境を4日間以上中断すると、その作用は失われ始めます。
 つまり、盆休み明けは暑さへの慣れが失われている可能性があります。

肌が冷気に直接触れると熱を逃がすまいと防御

 肌が24℃未満の空気に直接触れると、肌から体温を逃がすまいと、皮膚の血管が収縮します。すると、熱の放散が障害されてしまいます。

休憩は日陰の場所で、冷房室内なら長袖で

 したがって、作業後に低い室温やエアコンの冷気が肌に直接当たる所へ移った時は、肌を露出させないように、長袖にしましょう。
 車での移動中も、肌を露出させない長袖で、車から降りたらスポーツドリンクで水分・塩分を十分補給して、体温を下げるように努めましょう。

「低い室温で体を冷却できる」は間違い

 低い室温にするほど短時間で身体を冷却できると考えるのは間違いで、逆効果です。冷蔵庫でモノを冷やすような感覚で空調を使ってはなりません。

車のエアコンで休憩は体内には熱がこもったまま

 車の中は屋根から輻射熱を大量に浴びるため、直射日光は避けられても夏場の休憩場所としては不適当です。車で休ませていたら急変して死亡した人が昨年は6名いたと発表されています。
 車のエアコンで冷風が肌に当たると、大量に浴びる輻射熱(放射熱)が体外へ放散されにくく、涼しくなったつもりでも、体内には熱がこもったままになってしまいます。

作業初日に死亡が3割

 熱中症による労働災害の死亡者数の統計では、暑さへの慣れが、大きく影響しています。
 作業開始からの日数で見ると、作業初日に、いきなり死亡した人が約3割にも、のぼります。最初の3日間で約3分の2を占めます。

死亡のピーク時間帯
11時台と15〜16時台 休憩はしっかり取る

 気温のピークは14時少し前ですが、気温が高いから熱中症になるのではありません。
 熱中症による死亡のピーク時間帯は、年によって違いますが、平均すると、おおむね11時台と15〜16時台となっています。
 12〜13時台が少ないのは、昼休憩を取って、疲労と体温が少し回復しているからだと思われます。
 建設業では10時・3時に長めの休憩を取る習慣がありますが、疲労と体温を落ち着かせて、体にためたままにしない効果があります。

2025年6月1日

熱中症対策  第2弾
飲み方と救急処置
しくみを知って具体的対策を


ラベルを見てナトリウムが100ml当り40r以上入っているか確かめる

 熱中症は6〜8月に多く発生します。5月号でお伝えしたように、水分・塩分のバランス調節ができなくなると、熱中症の症状が現れます。
 これだけ熱中症対策が、さけばれても、毎年多く発生するのは、正しい知識が伝わっていないためです。熱中症のしくみを理解して、具体的な対策を進めましょう。

何を飲むか
水分・塩分の両方を
スポーツドリンクが便利

 汗をかいた時は、汗で失われた水分・塩分の両方を補給するようにします。水分と塩分の割合は、ナトリウム(Na)が100ml当り40r以上入った飲料が効果的です。ほとんどのスポーツドリンクは、ラベルを見てみると、40rになっていて、とても便利です。

水ばかり飲むと逆効果 体の塩分濃度が薄まる

 水分ばかり取ると、体の塩分濃度が薄まって、熱中症の症状が現れやすくなります。塩分(ナトリウム)の薄いものを飲む場合は、同時に塩飴・塩昆布・梅干などで塩分も補給するように心がけましょう。
 お茶やコーヒーは、カフェインによる利尿作用があり、かえって水分を失ってしまうので、飲みすぎに注意です。仕事終わりの生ビールは格別ですが、アルコールにも利尿作用があります。

減塩を気にする方も
汗で失われた塩分補給を

 塩分を気にする方は、「汗で失われた塩分補給」を意識しましょう。汗をかいた時は、しっかり塩分を補う必要があります。
 しかし、汗をかいていないのに、味覚の好み等で塩分ばかり取ると、体の塩分濃度が高すぎる状態が続いて、健康を害してしまいます。

どう飲むか
チビチビと計画的・定期的に
手の届く所に置いておく

 「汗で失われた分を補給」と言っても、汗の量はなかなか把握できません。したたる汗は別として、通常は汗には気づきませんし、汗で水分・塩分とも失われると、塩分濃度は変わらないので、のどがかわいた、という自覚症状も出ないからです。
 したがって、計画的・定期的に飲むことがポイントです。例えば、作業開始前にコップ1杯、作業中は20〜30分ごとにコップ半分ずつ、作業終了後は30分以内にコップ1〜2杯、といった具合に計画しておきます。
 こまめに水分・塩分補給できるように、作業場所の近くの、手の届く所に水筒を置いておく、など工夫しましょう。
 心掛けていても、作業に夢中になっていると、思い出せません。事業主や職長が定期的に声をかけることも大切です。

緊急時の救急処置は
早期発見が何よりも重要

 緊急時の救急処置は、早期に行うことが何よりも重要です。そのためには、仲間の気づきが大事です。

自分では気づきにくい
仲間の気づきが大事

 仕事に没頭したり無理をしていると、自分では気づかないうちに、いつの間にか体温が上がり、正常な判断ができなくなってしまうことが、よく起こります。仲間同士で、普段とは様子が違う人がいたら、「もしかして熱中症では」と疑うことが第一歩です。
 一生懸命に作業しているように見えるのに、作業のペースが落ちたり、ミスをしている人を見たら、すぐに休ませて、応援を呼び、救急処置を行うことが大切です。

熱中症を少しでも疑う時
日陰へ移し、風を当てて汗を蒸発させる

 普段とは様子が違い、熱中症を少しでも疑う場合は、まずは日陰の場所へ移しましょう。そして、うちわや扇風機の風を当てて汗を蒸発させて、体の熱を奪うようにします。濡れタオルや保冷剤などがあれば、首・わきの下・足の付け根に当てます。水道ホースで体に水をかけることも推奨されています。
 なお、車で休ませたら急変して死亡した方が、昨年6名いたと発表されました。車の中は、直射日光は避けられても、屋根からの輻射熱(放射熱)を大量に浴びるため、夏場の休憩場所としては不適当です。

吐き気が無ければスポーツドリンクを

 吐き気や嘔吐が無く、自力で水分を摂取できる場合は、水分・塩分を補給させましょう。
 ただし、先ほど説明した通り、水分だけを飲ませると、体の塩分濃度が薄まって、逆効果です。
 スポーツドリンクや経口補水液(オーエスワン等)が良いです。常備したり、持ち歩くのをオススメします。わずか数百円で人助けができます。

いつもの元気が戻らない時
ためらわず119番

 数分間、様子をみても、いつもの本人のような元気が戻らない場合は、119番で救急車を要請します。
 症状が急速に悪化する場合に備えて、救急車の到着までは、できるだけ、誰かがそばで様子をみるようにします。

ヤセがまんしないで
声を掛け合える雰囲気づくりを

 自分で自分の体の異変に気づいた時に、ヤセがまんする人が、多くいます。特に、仕事上の立場が弱いと、言い出せずにがまんしてしまう傾向が強いと言われています。
 気軽に声を掛けたり、相談できる雰囲気づくりを、みんなで心掛けましょう。
 一人作業後は、仲間と連絡を取り合おう
 一人作業はなるべく減らしたいところですが、どうしても一人作業の場合は、作業後に仲間と連絡を取り合う、など工夫しましょう。

救急搬送の判断

 医療機関に連れて行かなくても良いと判断できる条件は、次の3点がすべてそろっている場合のみです。
 @本人の意識がハッキリしていること
 A自分で水分・塩分が摂取できていること
 B症状が明らかに軽快傾向にあること

2025年3月1日

土建国保に関する届け出をお願いします

 @転居して住所が変わった
 A家族が増えた
 B家族が減った(子どもが就職して社会保険に加入したなど)
 C事業の形態などが変わった(「会社を設立した」「従業員を雇った」など)
 このような場合、届け出が必要になりますので手続きをお願いします。詳しくは支部事務所へお問い合わせください。TEL:03―3963―5325

2025年3月1日

板橋区内の健康診断提携病院一覧

※平日も受診できます。予約して受診してください。

 小豆沢病院健診センター TEL:03―3968―7041
   板橋区小豆沢1―6―8
 下赤塚診療所 TEL:03―3979―6361
   板橋区赤塚2―9―4―1F
 小豆沢病院付属高島平診療所 TEL:03―3932―3394
   板橋区高島平8―1―1
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 IMS ME―LIFEクリニック板橋 TEL:03―3967―1515
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